『ヒキコモリ漂流記』を読んでしまいました

昔ブログに載せていた記事で行き場を失ってしまったものをサルベージしました。
ここのカテゴリーに載せるのもズレていると思うのですが、ここが一番近かったのでアーカイブの意味も込めてここに載せておきます。


髭男爵 山田ルイ53世 著『ヒキコモリ漂流記』。
本屋を見つけると、つい、探してみてしまって、3軒目で1冊見つけてしまい、それでも一度は、なんとかスルーして店の外へと足を踏み出したのですが、うっかり踵を返してしまい、抑えきれずに買ってしまいました。貧乏なのに。

(エロばっか書いているブログで、こんなん取り上げて良いんだろうか? って、気もするんだけど、どのみち閲覧数少ないブログだし、そんなキチキチしなくても良いかってことで、取り上げちゃいます。エロ目的の方はこのページは関係ありませんので、すみませんが、引き返し推奨です。)

ヒキコモリ漂流記

いわゆる、『特に問題の無さそうな一般的な家族』の体を成しているにしては、『内面的に歪な家庭環境』に育つ子が、『特に鋭い感受性』を持っていたりすると、こんなんなってしまうことがあるよ、という一例を指し示してくれている著書だと思います。
あまり生きづらさを感じることなく社会の明るいところを歩いて行ける方には、奇異に映るかもしれない仰天の行動の数々が描かれているわけですが、正直、僕は全部理解できちゃった。
日陰小庶民があまり自分語りすべきではないのだが、僕には男爵さまほどの派手な状況は無いものの、全般的に自分は男爵さまの下位互換だって気がした。

男爵さまは、学業もスポーツも飛び抜けていて、その片鱗は今でも、特に文学とか歴史方面で一般人には分からなさそうな比喩や知識がぽろんと零れてきたりして、教養が溢れてしまうことが良くある。スポーツ関連でも、あの体型にまで成長しながらも、華麗な泳ぎや素潜りを披露し、サッカーの始球式ではゴロではないシュートで華麗にゴールを決め、野球の始球式ではプロのピッチャーが投げるのと同じ距離をノーバウンド、しかも、あまり弓なりにもならない軌跡で投球を決めた。

自分はスポーツ全くダメ。縄跳び二重跳びを連続125回飛んで学年5位になったことがあるのと、ボウリングのハイスコアが202であることくらい。
学業は一貫して公立の学校だが、中学では学年2位。高校では1教科に限ってしまうが偏差値86を取ったことがある。学習塾に一度も通ったことがなく、ほぼ授業だけでここまでやれる、ってのが自慢の一つだった。
そう、自分も相当に『思い出の燃費』が良い。そして、自分にもありました、『神童感』。
そして、男爵さまは『ウンコ』が一つのきっかけですが、僕は『オナラ』でぇす。

でも、僕の場合は新たな思い出なんて出来ることがほとんどない。自分はまだまだ下がっていっている一方。
男爵さまは自力でなんとかして、立派に社会に生きている。
ここに大きな、そして、完全に、埋めることのできない『差』と『溝』が存在する。

男爵さまはサクセスストーリーではない、とおっしゃいますが、自分から見たらとんでもないサクセスストーリーです。
男爵さまはきっちり、ぷっつりと切れて、ごろごろと転げ落ちて、そこから華麗にスキージャンプを決めて、綺麗なポーズで着地している。
僕ができているのは、切れているのか切れていないのか分からないくらいの微妙な感じのまま、ころころと転げ落ち続けて、深みにハマっていくことだけ。
抜け出せないかともがいてみると、もっと下へ行く穴に落ちちゃったよ、もう、日の光りも届かないね、って感じです。

読書感想文にならずに、自分語りに陥ってしまうのは、それだけ、読んでいて自分に跳ね返ってくる内容だから。
他人事って気がしない、心理の根底の共通点を見つけてしまったから。
でも、一緒だとは言わない、言えない。それは、男爵さまに失礼にあたる。

サクセスストーリーだと、さっきは言ってしまったが、立派に社会で生きている男爵さまは、今でも、完治できない三つ子の魂を抱えたまま、それでも、ちゃんと社会に生きている。脳天気なハッピーエンドでは決して無い。

自分にはそれができない。自分は社会に出ると、生きていけない。
あるとき、いろんなことが折り重なって、自律神経失調症とうつ、という診断をもらった。
医師に洗いざらい話せたわけでもないし、医師側もそんなに深く関わるつもりがないから診断は出なかったが、パニック障害と対人恐怖症もあったと思う。
一日中ずっとベッドに這いつくばる日々が続き、玄関に近付くと動悸と吐き気がした。用事があってどうしても外に出なくてはいけないとき、玄関の覗き窓から外を見て、往来する人が居なくなるのをずっと待ち続けていた。
病院通いはそんなに長くなかったが、完治しているわけでもない。どうしても、魂がそういう方向に向いてしまっている。
今でも、気にしていないつもりでいても、表に出ると視神経が凝固して、目の奥の筋肉が恐ろしいほどに凝り固まる。眼圧もバカみたいに上がって目ん玉がパンパンになる。だんだん、目が見えなくなってくる。
ストレスが溜まってくると、腕を中心として、身体のあちこちが痒くなる。デキモノができているわけでもないのに、デキモノみたいに痒くなる。
社会に出て働いていると、どうしても、精神や肉体の一日の収支計算をゼロに持って行けないのだ。どうしても、日々、赤字決算になる。たとえ、定時で帰ったとしても。
だから、ずっと働きに出ていると赤字が嵩んで破産しそうになる、だんだん死にそうになる。

かつて、自律神経失調症とうつで働きに出られなくなったとき、周りには誰一人として味方は居なく(と自分には感じられており)、自分ですら、自分を呪っていた。
昔、『死ぬのは絶対に嫌だ』、と思っていた少年は、中年になって、駅のホームを歩けば線路に引き寄せられるようになった。箸を見れば目に刺さる、包丁を見れば落ちてきて足に刺さる、高い所に行けばそこから落ちる、赤の他人が無差別に自分だけを批難、攻撃してくる。理性ではそんなこと思っちゃ駄目だと考えていても、勝手にそういうイメージが湧いてくる。そんな中年になってしまった。

男爵さまは「人生が余ってしまった」と表現されたが、僕は「人生が終わってしまった」。
男爵さまは振り子の振れ幅が大きいので、中学生でぷっつりと切れているが、僕は振れ幅が小さくて、中年になってから完全に切れたので、余らない。終了。
そして、この辺は、結構大きな違いなのかもしれない。男爵さまは、あまり自分で自分を攻撃するようなことは、少なくとも著書上では見受けられなかったように思う。
僕はずっと、自分が嫌いだった。鏡を見て、誰だこいつ? って、たびたび思う。

ただでさえ、味方は誰も居ないのに、自分すら自分を嫌ってしまったら、本当に『死』しかない。
それを反省した僕は、どんなに根拠が無かろうが、理由が無かろうが、自分が自分を嫌うことだけは止めよう、と心に誓った。
でも、死なないように生きていこうとすると、僕は社会に出られない。社会に出て生きようとすると、死にそうになる。
僕は社会に復帰できない。
いや、多分、最初から社会に参加なんて出来ていない。
『大学は社会の縮図』なんてことを聞いたことがあって、こんなのが社会なんだったら、僕は社会になんて出たくない、って学生時代に思ってた。
そう、生まれたときから、社会に参加できない魂を持って育ててきちゃったんだろうね。

他人は、簡単に『直せよ』『甘ったれんな』って言うだろう。
そりゃ、自分のルールで生きていける人は、他人にもそのルールを強要することに躊躇がないもんね。「常識」でしょ? って、ホームグラウンドで左団扇で生きていける人は簡単に言う。
僕はいつも、アウェイのルールを押し付けられる。不平等条約が大前提、と多数派に強制される。

『戦争が無ければ平和』、って簡単に考える人が居るけど、人間社会はいつでも、如何に『俺ルールを他人に押し付けるか』という戦争を繰り広げている。
個人レベルでもそうだが、国家レベルでもそう。
オリンピックで日本が金メダル取ると、競技ルールが変更されるよね。
TPP、俺ルールの押し付け合いだね。
英語を世界標準語にしようとする動きも、英語以外を母国語とする人達にハンデを与える作戦の一つ。富と叡智は、英語と英語圏の国々に集中する。
中国がバカみたいに自分勝手を繰り返すのも、そう。特に、ここ十年、二十年くらいは中国一国だけで英語圏の国々と戦える唯一のチャンスだから、恐らく、多少自覚があったうえで横暴を繰り広げている。もう三十年くらい経つと、人口でインドに抜かれて、競争力が落ちる可能性が高い。だから、今のチャンスにしがみついて無茶苦茶やっている。今のうちに一つでも多く俺ルールを押し付けておこうと必死。
どこの国でも、できるだけ俺ルールを押し付けて自国を優位に立たせようと画策してくる。だから、他国の文化にも平気で文句付けるし、内政干渉も平気な顔してやってくる。

『もっと、外に出るべき。もっと、人と触れ合うべき。』
んなもん、てめえらのルールだろ? なんで、表に出る奴が上で、出ない奴は下って決めつけてんだよ。俺のルールじゃ、自省しないでキャッキャキャッキャ言っているだけのてめえらの方が下なんだよ。てめえら、外に出たってつるんで騒いでるだけじゃねえか。
『孤独死は寂しい。』
何、勝手に決め付けて、孤独死する人を貶めてるの。誰に見守られていようが、死ぬのは自分一人なんだよ。全員、孤独死確定なんじゃい。『孤独死は迷惑』って言うんだったら、まだ分かるけど。
『ヒキコモリにどう対処したら良いか。』
どうにかして、アウェイルールの元に引き摺り出そうとすることしか考えていないんですね。
『ポジティブに考えるべき。』
なんで、僕の人生や人格をあなたの尺度で評価されなきゃいけないんですか。

正直、自分はもう、十年ほど前に死んでいるんですよね。
男爵さまは、「人生が余った」状態から「足りなくなった」状態にまで復活できていますが、僕は「終わった」ままで「始まらない」。
今、やり直している、やり直せている、なんて気持ち、微塵も無い。
たまたま、一命を取り留めて(本当に、よく生きてたと思う)、あれ? このカセットテープ、終わったと思ったらB面にもなんか入っているっぽい、そんな感じ。実は、ただのノイズだけなんだけど。
かといって、それで達観して、オセロのコマをひっくり返したみたいに、はっちゃけた人生を送れているわけでもない。そういうところが、僕の小物っぷりをよく表していると思う。
多分、人間に満たない魂が、背伸びして人間に入り込んじゃったんだよ。もしくは、人間のふりした妖怪かもね。

でも、ある意味、このB面、僕は男爵さまに救われて生きてきたところがある。(全く、こちらの一方的な想いであるが)
家に籠もって、何もできなかったとき、ひたすら男爵さまの映像を見ていました。
もちろん、僕が世間一般とはズレまくっている感覚により、邪な想いを抱きつつ見ていたことは否定できませんが、当時の男爵さまはとってもセンセーショナルな御方でした。
これが、世間ではほとんど言われることが無いので不思議なのですが、男爵さまは、デブな芸人というジャンルで、初めて、デブであることを(自らは)売りにしなかった芸人さんだと思うのです。
芸人さんの多くは、ちょっと太っているというだけで、自ら安直にデブキャラを当て嵌めようとします。普段はニコニコしているだけで、ドジでノロマなデブだけど、食べる時だけは主役、みたいな。
男爵さまはそういったステレオタイプに一切属さず、例え、コスプレキャラだとしても、『優雅』さを持ち込んだデブ芸人さんというのは後にも先にも男爵さま一人だけ、じゃないでしょうか。しかも、実際に、学もあるし、運動神経も良いから、全然既存のデブキャラのイメージに当て嵌まらない。
ブレイクしていた頃のネタなんて、完璧でした。ネタそのものもさることながら、ネタで笑えない人には、リズムで、間の取り方で、雰囲気で、キャッチフレーズで、と、取りこぼしが無いように、幾つも綿密に仕掛けられていて、全く隙の無いまとまりを見せていました。
流石に貴族であることは嘘だと分かっていても、貴族と認めてしまっても全く差し支えないくらいに出来上がってた。
余談ですが、その後、キャラのダイエットと言って、ダミ声ばかりを強調して、普通のお笑い芸人であることをアピールし始めちゃったときは、逆にガックリと来たものです。自分から降りて行くなよ~って、画面に向かって言ってた。

男爵さまに元気を分けてもらって、それじゃあ終わった後の人生を少しでも自分のために何かしてあげるか、って思えるようになって、歌を作ってみたり、小説書いてみたり、って始められるようになったんですね。
なので、完全に一方的な片想いですが、男爵さまは僕の恩人なのです。

なんか、完全に自分語りに終始してしまいましたが、男爵さまも言っておられました。「それでも、粛々と生きていくしかない」。
現実を受け止めるしかないんですよね。
でも、僕も諦めているわけではありません。
いずれ、遅かれ早かれ、こういうことを考えることも、思うことも、できなくなる日がやって来る。
だから、小物は小物なりに、藻掻いて足掻いて蠢いていくんですよ。
Gradual Improvementを信じて。

2015-10-04